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「あたりまえ」宗教科 阿部光喜

宗教科 阿部光喜

 新型コロナウイルス感染症拡大により、大きな不安の中、皆さんと一緒に神への祈りのうちに過ごしています。新型ウイルス感染症は全く終息にむかってはいません。地域により差異はありますが、世界的に感染拡大の状況です。

 このような状況の中、高校は始まりました。いろいろの大切な行事が関わりのある生徒だけの参加で行われたり、行事が中止となり、日常の変化に出会い、うろたえいつもと違うことに違和感を感じながら、7月が終わります。

 人の移動がリスクとなり集まることが許されず、対面して話すのを恐れる日常がまたたくまに世界を覆ってしまった。他者との身体との接近にこれほど神経質になり、警戒し合う経験がかつてあっただろうか。

 白血病から復活のオリンピック水泳選手池江璃花子さんが、国立競技場で希望の炎が輝いてほしいと願い、すがすがしい姿でスピーチされた。2020年という特別な年を経験したことで、逆境から這い上がっていくときには、どうしても希望の力が必要、希望が遠くに輝いているからこそ、どんなにつらくても前を向いて頑張れると彼女にしか伝えることが出来ないメッセージに感動した。

今のこの状況を、様々な不安や困難がある一方で、ポジティブに反応する学生の声を新聞で読んだ。

「コロナがなければ気づかなかったこと」という、日常への感謝、「あたりまえ」のありがたさ・・・各国の対応策を見比べながら、初めて政治に関心をもった。そして日々、自分自身に問いかけられていることがあるという。「自分の命を守る」「他者の命を守る」という意識と行動にかわっていったと。あなたはどう過ごすか。

 数年前、「あたりまえ」という詩を2年生の宗教の授業で勉強したことがあった。わたしがいつものように力説すればするほど、しらけてしまった。なぜだろうかと考えた。それは、あたりまえの毎日のうちはそのものの真価に気づいていないし、考えようともしないということなのだということがわかった。
「飛鳥へそしてまだ見ぬ子へ」を書かれた井村和清さんをしっていますか。これからお話しする井村さんの生き方を通して気高い風に出会うでしょう。

 1979年1月に癌で32歳の若さでこの世を去った医師。癌が発見されたのが1977年、30歳。転移を防ぐため、右足を切断、しかしその後、癌が肺に転移していることが分かります。井村先生が永眠される1か月前、勤めている病院の朝礼に最後にのぞまれた時の言葉です。 
 「私の心には3つの悲しいことがあります。一つ目は、どうしても治らない患者さんに何もしてあげられない悲しさ。2つ目は、お金のない貧しい患者さんが、病気だけでなく、お金のことまで心配しなければならないという悲しさ。3つ目は、病気をしている人の気持ちになって医療をしていたつもりでも、本当は病気をしている人の気持ちにはなれないという悲しさです。ですから、皆さんに、患者さんに対してはできる限りの努力を一生懸命していただきたいのです。」と。
 また、闘病生活の中で、井村さんは、1歳6か月の長女飛鳥さんと、2人目の子どもをみごもった妻 倫子さんに、感謝の気持ちと、いつまでも一緒に生きていきたいのに、それができない悲しみ、子どもたちへの想いを手記につづり始めました。

 「ふたりの子どもたちへ」
心優しい思いやりのある子に育ちますように。父親がいなくても、胸を張っていきなさい。私は最後まで負けない。お前たちの誇りになれるように。決して負けない。だから、お前たちも、どんな困難に遭うかもしれないが、負けないで耐え抜きなさい。
 思いやりある子とは、周りの人が悲しんでいたら悲しみ、喜んでいたらその人のために喜べる人だ。思いやりのある子は周りを幸せにする。周りの人を幸せにする人は、周りの人によって、もっともっと幸せにされる、世界で一番幸せな人だ。だから、心の優しい、思いやりのある子に育ってほしい。それが私の祈りだ。さようなら。私はもういくらもお前たちの傍らにいてやれない。お前たちが倒れても、手を貸してやることができない。だから、倒れても、倒れても自分の力で起き上がりなさい。さようなら。お前たちがいつまでも、いつまでも幸せでありますように。雪の降る夜に   父より。

 父の子を思う心は海のように広く温かく、深い愛であふれているのでしょう。子どもが困難に出会ったときに、そばにいてあげられず、守ってあげられないのは父としてもつらいことだと思います。しかし、この手記が、残された子どもたちの心の支えになることでしょう。
日常のささやかな事柄の数々をあらためて思わせてくれる詩。医師であり、父としての井村和清さんの詩を紹介します。皆さんのこころに気高い風にこころがとまりますように。

「あたりまえ」
あたりまえ
こんなすばらしいことを、みんなはなぜ喜ばないのでしょう
あたりまえであることを
手が二本あって、足が二本ある
行きたいところへ自分で歩いてゆける
手をのばせばなんでもとれる
しかし、誰もそれを喜ばない
あたりまえだ、と笑ってすます
食事が食べられる
夜になるとちゃんと眠れ、 そしてまた朝が来る
空気を胸いっぱいに吸える。
笑える、泣ける、叫ぶこともできる
走りまわれる
みんなあたりまえのこと
こんなすばらしいことを、みんなは決して喜ばない
そのありがたさを知っているのは それを失くした人たちだけ
なぜでしょう  あたりまえ    
『飛鳥へそしてまだ見ぬ子へ』より  井村和清

 生きたくても生きられない命があります。無念のまま死ななければいけない命もあります。生かされていることに感謝して、あたりまえのことに喜びを感じ、幸せを感じ、周りの人に感謝をして、一日一日を大切にしていきたいと思います。私はシスター入江がお話しされたお言葉がいつもこころから離れません。それは

「風はどこから吹いてくるのか人は誰も知らない。
愛を呼び覚まし、心を潤し、いつの間にか私の中を吹き抜けていく
それは気高い キリストの思い この風に気づいてください。
風の思いに吹かれた よい一日でありますように。」 

シスター入江のお言葉をおかりしました。

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