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講堂朝礼〜生徒へのメッセージ〜

Messages for Students

「こうのとりのゆりかご」校長 古賀誠子

熊本の慈恵病院の、蓮田健先生から、先日お便りをいただきました。「こうのとりのゆりかごだより」第三号です。「こうのとりのゆりかご」は、みなさんが高3になったときに、本校のルーツの学習の仕上げとして訪れる場所です。「赤ちゃんポスト」という言葉を聞いたことがありますか?報道などではこの言葉をよく使っていますが、海星ではこの言葉は使いません。なぜならば、赤ちゃんはポストに入れるものではないからです。

さて、熊本にある慈恵病院は、本校が母体とするマリアの宣教者フランシスコ修道会によって設立されました。カトリックの愛と献身の精神により、またすべてのいのちを守るという観点から、病院内に蓮田太二院長先生が、『こうのとりのゆりかご』を2007年に開設し、これまで多くの幼いいのちを守ってきました。誰にも妊娠を相談できず、孤独の中で出産し、生まれたばかりの赤ちゃんが、遺棄されたり、口をふさがれたり、首を絞められたりして亡くなっていく現実が絶えませんでした。テレビで、蓮田太二先生が、ある一人の赤ちゃんが、熊本県内のゴミ箱に遺棄されて亡くなった事件に涙を流され、この「小さな命を守る」行動をすぐにとるべきだと強く訴えていらっしゃる姿を見ました。世間からの多くの批判が寄せられました。「安易な預け入れにつながる」などと反対がありました。当時の安倍晋三首相も「親として責任を持って産むことが大切ではないか。大変抵抗を感じる」などと発言しました。「爆破してやる」などといった脅迫まがいの電話もかかってきたといいます。しかし、先生は信念をもち続けました。そして、社会的、法的な障壁を打破しながら、設立までたどり着きました。現在、ゆりかごは、妊娠や出産に関して様々な悩みを抱えておられる人、特に望まない妊娠により悩んでいる妊婦さんのために、24時間体制で多くの専門のスタッフが相談に乗っています。2019年3月末までに預けられた赤ちゃんは155人、相談窓口に寄せられた新規の相談件数は、41,343件になりました。今、息子の蓮田健先生が、病院を引き継ぎ、孤独の中の妊娠、出産に悩むお母さんたちに引き続き寄り添い、養子縁組などの斡旋も行っています。

「こうのとりのゆりかご」の運営には、年間2500万円がかかり、これらは、寄付金と病院の支出で賄われています。コロナによって、最近の医療経営環境は厳しく、本校でも昨年度、11月に、「こうのとりのゆりかご」募金を募りました。およそ40万円の募金が寄せられ、前生徒会長が慈恵病院を訪れました。シスター入江に案内していただき、「こうのとりのゆりかご」にみなさんの募金が手渡されました。皆さんの温かい想いに心から感謝をおぼえました。

思いがけない妊娠に悩み、妊娠の事実を隠し通さなければならない妊婦さんは、病院を受診することなく出産日を迎えます。本来ならば母子手帳が手渡され、毎月の検診で、赤ちゃんのお腹の中での成長の記録を嬉しくとりながら、妊娠期間を過ごします。しかし、このような妊婦さんは、妊娠期間はもちろんのこと、自宅、ホテル、車の中で、秘密に出産し、孤独と不安に襲われながらのお産です。どの妊婦さんにもいえることですが、お産は命がけです。親が付き添い、夫が付き添い、背中をさすって、励まします。でもこのお母さんたちは、たった一人で一生懸命この世に命を運んだお母さんたちです。相談や実際の出産は、実は全国規模で、赤ちゃんを一人で産んだお母さんは、自分の処置はなされないまま、つまり出血しながら、まだ飛行機に乗れない小さな命を守るために、 遠くは関東、関西からも車を運転し、赤ちゃんを「ゆりかご」へと届けるそうです。そのようなお母さんたちをただ無責任だと言って責めることができるのでしょうか。こうなったのは自業自得だと言って、放っておくことができますか。実際に、目の前に助けを必要としている人がいて、どうして素通りすることができるでしょう。生まれたばかりの赤ちゃんも同様に、助けを求めています。慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」は、そのような赤ちゃんとお母さんたちに寄り添います。

蓮田太二先生の著書の中で、『ゆりかごにそっと』という本があります。その中に、『シスターに学んだ』という箇所がありました。そこにはこう書いてありました。蓮田先生が勤務されたばかりの時、「院長は日本人シスターでアイルランド人の総婦長のもとに、17名のシスターが勤務していた。シスターたちは患者たちに私利私欲なく、自分の生活も人生も捧げ、どんな人にも、どんな病状にも分け隔てなく尽くしていた。あるシスターは、吐血の血を浴びながらも、交代もせずに看護を続けていて、びっくりした。シスター鼈甲屋には感動した。出産が近づくと妊婦の腰をさすり続け、いよいよお産となると昼でも夜でも朝方でもぴったりと寄り添って看護する。当時、大学病院でも助けられないと言われた1000グラムに満たない未熟児をそばに付き添い、夜も眠らず看病し続け、命の危機を超えさせたこともあった。口蓋裂のある子が生まれると、全力をつくしてミルクを飲ませた。私はシスターたちの看護に驚きつつ、命と向き合うことを教わった。」

本校のルーツに目を向けてみましょう。1889年、コール神父様が熊本に派遣されました。熊本の本妙寺周辺で、ゴザをひいて治療も受けずに寝起きし、希望もなく苦しんでいるハンセン病患者たちがいました。あまりの哀れさに「胸がえぐられる思いであった」と話していらっしゃいます。その後、ローマの修道会に援助を求め、すぐに、「マリアの宣教者フランシスコ修道会」から5人のシスターが派遣され、1898年 「待労院」が設立されました。シスター方は、土地の言葉を学び、土地の習慣に従って生活しながら、献身的に治療、看護にあたり、まず桶で患者の足を洗うことから始めました。人の世話を受けたことのない患者たちは、最初は反抗的で堅く心を閉ざし、強い警戒心を示していたそうですが、およそ1か月後には、彼らのほうから安心して足を出すようになったそうです。また、同じ病気で亡くなった友人の遺体がシスター方によって丁重に扱われ、棺に納められるのを見て、自分もそのように葬ってほしいと言ったそうです。病気に対する恐怖心から差別を受け、一般に本妙寺周辺で亡くなった患者は、人として接してもらえず、石油缶に押し込まれ、筵で覆われ、縄で縛られて墓地へ運ばれていたからです。また、シスターたちはいじめられているハンセン病患者がいると通知を受けると、急いで現場に駆け付け助けたそうです。

そして1899年、一人の捨てられた乳児を収容して、「聖母愛児園」、1915年、一人の俵に捨てられた老婆を保護したことがきっかけで、「聖母の丘老人ホーム」、そののち貧困で治療を受けられなかった一人の患者ために「施療院」が設立され、これが現在の「慈恵病院」となりました。そして、「こうのとりのゆりかご」は、一昨年ご帰天された蓮田太二先生が、「わたしたちはすべての命を守ります」という強い信念のもと、設立されました。もう話を聴いていて気づいた人はいるかと思いますが、「一人の困っている人」から、シスター方のすべての働きははじまっています。

これが私たちの海星女子学院のルーツです。皆さんはどう感じましたか。私はそのような学校でお仕事できることを大変光栄に思います。

「神よ、わたしに

慰められることよりも 慰めることを

理解されることよりも 理解することを

愛されることよりも 愛することを望ませてください。

私たちは自分を与えることによって 真にうけるのであり

すすんでゆるすことによってゆるされ

人のために自分をささげることによって

永遠に生きることができるからです。」

この『聖フランシスコの祈り』の精神は、日本に派遣されたコール神父様、5人のシスター方、マリアの宣教者フランシスコ修道会のシスター方、慈恵病院のスタッフの方々、そして福岡海星女子学院にも脈々と流れ続けています。私はこのようなルーツを持つ福岡海星を心から誇りに思います。

最後に海星小学校の児童がとても素敵な歌を、元気に歌っているのを聞きました。「君は愛されるため」という歌でした。私の好きな歌の一つになりました。ある女性がYoutubeで歌っているのを見つけたので、みなさんに動画でご紹介します。韓国の教会の方がつくったものを日本語に翻訳したものです。どうぞ御覧ください。

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