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講堂朝礼〜生徒へのメッセージ〜

Messages for Students

令和3年度修了式 「祈り」校長 古賀誠子

 1年が終わりました。この1年間を振り返ってみて、今どう感じていますか。毎年春、進級や進学は、本当に喜ばしいことですね。目標に到達した達成感を味わっていることでしょう。みなさんの探究発表会の発表内容、試験前に皆さんが必死になって遅くまで学校にのこって努力している姿、部活動に励み、各人が課題をもって取り組んでいる姿を見て、心身ともに皆さんは高校生として、レベルアップし、高い階段をのぼった一年間だったように思います。今年は、新しい取り組みとして、「チャペルノート」がありました。皆さんの振り返りを毎月楽しく読ませていただきました。月を追うごとに、より素晴らしい振り返りにたくさん出会いました。人としての生き方やあり方について、しっかりと考察を深め、知識を大いに広げた1年でしたね。一人一人の成長がよく見え、私も皆さんへの返信に楽しく取り組ませてもらいました。

 その中で、みなさんにもご紹介したい振り返りがあったので、3つほどご紹介します。まず1年生のものです、「シスター入江の話を伺って、これから起こるいろいろなことに対して、自分の持つすべての力を使って、引き受けるということを大切に生きていきたいと思いました。また、普段の生活で当たり前だと思っていることは、神様からいただいた奇跡だということを忘れずに、感謝して生きていこうと思います」次に2年生、「オレンジがどのようにして自分の手にわたってくるのか、と考えたときに、今あるものがさまざまなプロセスで自分の元にやってくる。それを思うと、何か人と人の深いつながりを感じました。いろいろな世界を通り抜けて、いろいろな人にわたっていくことができる世界が、これからもずっと続いてほしいと思います」、最後は、3年生の振り返りです、「『正しさ』を見極めることはとても難しいことだと感じました。私たち自身の中で何かをしたいと思うのは、神様からの強制ではなくて、神様からの呼びかけに自分自身が耳を傾け、それに応えて行動しているのだと感じます。」どの振り返りも、とても奥行きの深さが感じられます。私たちは日常の様々なことに忙しく、じっくりと物事を考える時間がない日々と送っています。その中で、海星の生徒は、シスターや神父様のお話を聴き、このように物事をじっくりと考える時間が与えられ、自分自身の生き方を選び直す機会に多くめぐまれています。それは、とても貴重で、有難いものです。

 さて、3月1日、3年生が卒業していきました。今日プリントでお渡ししますが、例年になく素晴らしい進路実績を残していった学年でした。厳かで、祈りに包まれた海星らしい、あたたかい卒業式でした。皆さんが作ってくれた赤のコサージュを胸に、高3は、凛とした姿で、大学、専門学校、就職と、あたらしい場所への期待を胸に3年生は巣立っていきました。これまで歌えなかった校歌を久しぶりに1番と3番だけ歌いました。3番の歌詞に、「地の塩なるを誓いつつ、気高き百合の咲き匂う学びの園となしゆかん」とあります、あらためて素晴らしい校歌だと思いました。3年生は、自分自身の選んだ進路(生き方)に誇りを持ち、百合の花のように凛とした姿で、そして、世の中の腐敗を防ぐ塩、世の中に味をつける塩となることでしょう。一人一人が、これからそれぞれの道で、人のため、社会のために自分を役立てて生きていく姿を、これからも見守りつづけたいと思います。卒業した3年生の皆さん、頑張ってください。

「いのちが人の役に立たないならば、何のためのいのちでしょうか。こう考えることが生きることの根底にないのならば、人生は闇です。」 
『そよ風のように生きるー旅行くあなたへ』より

 今年もコロナウイルスに悩まされた1年でした。コロナウイルス感染拡大によって、日常生活が突然壊され、様々な感情や反応が生まれました。フランシスコ教皇は、「もはやコロナ以前の生活に戻ることは幻想です。これまでの偽りの安定に戻るわけにはいきません。わたしたちが変わって新しいものを創り上げていかなければならないのです。」と言われています。
 友愛の精神が芽生え、絆を深めた人たちもいました。親は子どもと遊ぶ時間が増え、家族がこれまでより深い話し合いができるようになったといいます。人と人が手を取り合い、助け合う気持ちも芽生えました。私たちも、実際に、今年度の街頭募金では、例年以上のお金が寄せられたことに驚き、コロナでみんな大変な時なのに、「人の優しさに喜びを覚えた」と多くの人が振り返りました。そして、私たちの支援は、修道会を通して、マダガスカルのシスターのもとに届き、困っているこどものために役立てられました。
 しかし、その一方で、誤った情報や、嘘、人に対する不信、自分さえよければよいという利己的な思い、ロックダウンで、ドメスティックバイオレンスが増加したケースもありました。痛ましいことに、他者への攻撃、児童虐待も著しく増加したと言います。ロシアのウクライナへの侵攻により、戦争がはじまりました。6歳の女の子が犠牲になりました。必死の救命措置にもかかわらず、息をひきとっていく姿に母親が激しく泣きました。それを目の当たりにした医師がテレビに向かって、プーチン大統領に叫びました。「プーチン、お前はこの子の死をみて、何とも思わないのか。この子の親の悲しみを見て、平気でいられるのか。」世界中が嘆き悲しみ、戦争に断固として反対しています。わたしたちが皆でつながれば、戦争を止めるだけの大きな力になるのではないでしょうか。ウクライナの人々のために、私たちに必要な知恵と力が与えられますようにと共に祈りましょう。

  本日の聖書の箇所は「よきサマリア人」の話でした。ある人がエルサレムからエリコへ向かって、淋しい道を歩いている時、強盗に襲われてしまいました。逃げる暇もありません。殴られたり、蹴られたりして、とうとうお金も荷物も全部取られてしまったのです。旅人は体中傷だらけで、起き上がることができません。「誰かきて、助けてほしい。」と、死ぬような思いで待っていました。
 ちょうどその時、向こうから誰かがやってきます。その人は祭司でした。エルサレム神殿で、神様に仕える仕事をした帰りです。「助けてくれ」と力を振り絞って、一所懸命叫んだのに、その祭司はちらっと見ただけで、近づこうともしないのです。そして、わざと道の向こうを通って、さっさと行ってしまいました。旅人は絶望しました。
 やがてまた、足音がしました。やって来たのは、レビ人でした。レビ人も、神様に仕える人です。レビ人は、だれか倒れているなと気づいたのですが、もしかしたら自分も強盗に遭うかもしれないと恐れたのか、あわてて向こう側を通って行ってしまいます。
 「ああ神様助けてください」旅人は、かすれた声で言います。だんだん暗くなっていき、辺りはさらに物騒になっていきます。時間もだいぶたちました。また、誰かが来ます。「今度の人も、知らん顔していってしまうのかもしれない」と旅人は思いましたが、その人はなんと近づいてきます。ロバに乗ったサマリア人でした。旅人は再び絶望しました。なぜなら、追いはぎにあった旅人の国ユダヤとそれを助けた人の国サマリアは仲がよくなかったからです。
 ところがとても助けてくれないと思っていたのに、そのサマリア人は、急いでロバから降りると、自分の荷物の中から薬をとり出したのです。そして、旅人の傷の手当てをし、包帯もまいてくれました。「さあ、このロバにのりなさい。私が街の宿屋までつれていきましょう。」そのサマリア人は、とても親切に、夜の間もずっと看病してくれたのです。
 次の朝、サマリア人は仕事にいかなければなりませんでした。そこで宿屋の主人にお金を預けて頼みました。「すみませんが、この人を看てあげてください。お金がよけいにかかったら、わたしが帰りに払います。」そういって出かけていきました。このサマリア人は、敵対していたユダヤ人の「隣人」となったのです。

 私たちは時々、自分も知らないうちに、自分と異なる存在に壁を築いているのかもしれません。まずは自分から、まずは自分の家族から、自分の親戚から、まずは自分の所属するコミュニティーから、そしてまずは自分の国から、すべてにおいて自分のことを中心にし、利益をもとめます。そして、自分と異なる何か、または誰かに向かって「隔て」をつけてしまいます。私たち人間は、生来この祭司やレビ人のような傾向が強い存在です。人種の違い、思想、宗教、階級の違いによって、隣人であることを認めようとしないのは、人間の罪深さや弱さです。「平和をつくる人」とは、このサマリア人のように、 すべての命を守るという信念を持ち、 たとえ敵対している相手であっても、人種や宗教、民族的な偏見や憎しみを超え、見返りを求めずに、「命を一生懸命愛する」ことができる人です。

みなさんと共に心を合わせて、一日も早くウクライナに自由と平和が訪れますようにと、この戦争が終わるようにと祈り、修了式の式辞といたします。
「神よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。」
(アシジの聖フランシスコの祈りより)

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