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講堂朝礼〜生徒へのメッセージ〜

Messages for Students

『地の塩、世の光』宗教科 納富幸夫

「あなたがたは、地の塩である。あなたがたは、世の光である。』 (「マタイによる福音)」第5章13節 ~ 14節)

  • 「どんなときでも神から大切にされていることに気づき」、地の塩、世の光として、出会う人々に生きる喜びを伝えることができますように。

「18歳のわたくし」より

  • この復活節(Easter season)に「存在の土台に神の愛があることを知り」、希望をもって歩むことができますように。

「18歳のわたくし」より

  • 創立60周年にあたり、マリアの宣教者フランシスコ修道会のシスター方が築いてこられた建学の精神を守り、感謝のうちにこの一年を過ごしていくことができますように。
  • あなたがたは、地の塩である。

 イエスのこの言葉は、当時のユダヤでは真正直に生きる人、いつも変わらず大切な働きをしている人に対しての最上の賛辞でありました。だから、イエスがこの『塩』を弟子たちの生活の象徴に用いられたのは、聞いている人々に対して、イエスの信頼と期待の大きさ、使命と役割の大切さを理解させるのには十分なものでした。というのも、古代社会では「塩」は貴重な物であり、ギリシャ人は「サァイオン」(神)と呼んでいましたし、ユダヤでも「塩」は神々への捧げ物の中では最も原始的なもので、犠牲として毎日捧げ、すべての供え物には、必ず塩で味を付けなければならなかったからです。(「レビ記」第2章13節)古代ローマのことわざの中にも「太陽と塩ほど役立つものはない」という言葉があるほどでした。当時の人たちは、「塩」には三つの特性があると考えていました。

第一は、光り輝くその白さが純潔・清潔を連想させたのです。そこでイエスは、まず、『あなた達自身の中に「塩」を持ちなさい』と言われます。私たちが「地の塩」であるためには、まず、私自身がこの世にあって、純潔・清潔の模範でなければならないからです。「私の内にすべてを潔(きよし)める力を持つ」こと。つまり、利己心、自我意識から、苦さ、怒り、妬みから清められ、焦燥、気まぐれ、自己中心から清められることによってのみ、家族、友人、隣人たちと人生を平和に過ごすことが出来ると言われたのです。換言すると、自己から清められ、キリストのみ心に満たされた人生を送る生き方のみが、世界中の人達との真実の交わりの中に生きるといわれるのです。『世の汚れに染まらず、身を清く保て』(「ヤコブ」1)

第二は、「塩」は物に味を付けます。当然塩が入るはずの料理に塩を入れ忘れたら、どうなるか、誰でもが知っています。そこで私たちは人の世に風味をもたらす者でなければなりません。私たちは、勇気と希望をもって、私の心の中に持っている情愛と親切でもって、社会に風味を添える人にならなければならないのです。

第三は、「塩」は最初の防腐剤でした。私たちは世の中の腐敗や悪に対して防腐剤として働かねばなりません。一人ひとりが家庭や学校、社会の中での良心にならなければなりません。あらゆる「善」に対しては積極的に行動すべきなのです。人が悪に堕ちるのを助け、良くなるように助ける者にならないとなりません。

 イエスは福音の中で、特に重要な事柄については、真剣で、厳しい調子で話されることがありました。「もし、あなたたちが、イエスの期待通りに純潔と防腐力と輝きや風味を身に付けず、これらの使命を忘れ、これらの任務を果たさないと、それは私の深い信頼と愛を完全に裏切ることになります。神の配剤にあって、役立たないものは破局を招く」といわれているのがこの箇所です。イエスは言われます。

「『塩』が、もし塩味を失うならば、何の役にも立たず、外に捨てられて、人に踏まれるだけである。」(「マタイ」第5章14節)「聞く耳のある者は聞きなさい。」(「ルカ」第14章35節)

  • あなたがたは、世の光である。

 イエスはご自身を『私は世の光である。』(「ヨハネ」第8章12節)と言われ、『この光は、あなた方全ての人の心の中にあり、あなた方は全て光の子である。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。』(「ヨハネ」第12章36節)と言われました。そして、弟子たちに『世の光になれ』と命じられました。ユダヤでは、名のある有名な指導者(ラビ)を「イスラエルの光」と呼んで敬っていました。そして、ユダヤでは自分のあかり(ひかり)は、自分で点けるのではなく、常に「神」が点け、その【神の光】を反射させるのが自分の光であると考えられていました。そこで、イエスの「世の光になれ」を、イエスの光を、神からの光を、広く、社会に、人々の間に反射させ、輝かせるようにと命じられたのだと受け入れていました。そこでイエスは、私たちにも「キリストによって、あなたの心の中に灯された光を輝かせなさい」と言われているのです。そして、【人々はランプに光を灯して升の下には置かない。また、寝台の下には置かない】といわれます。ランプの光は人が物を見る為、人から見られる為の物だということです。私の心の中の光は、全てに人に見える場所に置かれなければならないのです。

光は人に見られるためのものです。私たちは、心の中のイエスの光を日常生活の中で輝かせ、人に見られなければなりません。買い物での態度、交通機関での態度、通学時の態度、学ぶ時の態度、毎日使う言葉や自然に対する態度の中に、心の中にある神の心、イエスの心を、周りの人たちに見せるようにと、イエスは言われているのです。

さらに、「光」は、人を導くためのものです。信号機や空港の誘導灯、夜道の街燈など、光は歩む道をはっきりと示します。私たちは、迷っている人、困っている人、悪に引きずられそうになっている人、弱い人を支え、率先して行動し、この世を導く光としてイエスに選ばれたのです。そして、常に、家庭や学校、そして地域で、人としての模範を示す者であれとイエスは言われています。しかし行うには、当然、様々な困難が待ち受けていますが、私を信頼されている神を信じ、自分の良心の声に従って、一つずつ解決する強さと恵みも、同時に神はお与えになっています。

最後に、光は警告でもあります。何かの危険がある時、光は停止するように警告します。私たちには、人々に警告を与える努めがあります。しかし警告も、特に大人の社会では、そこに利害や感情が絡んでくると、とても困難な場合が多くなります。友人同士の間でも、問題があった時、決して叱ったり、怒ったり、いらだったり、批判したり、攻撃したりしないで、相手の思いを大切にしながらの忠告には、耳を貸してくれたり、そうでなくても、いつかは相手の心に届くものだと信じて行わなければならないのです。

 何の変哲もないような毎日の生活の中で、私たちは『人に見られる光』として、『人を導く光』として、『警告する光』として、神に選ばれて、この『海星女子学院』の門をくぐって「光の子」としての人生の一歩を歩んでいることを、いつも忘れないでください。

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