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講堂朝礼〜生徒へのメッセージ〜

Messages for Students

『世の光』宗教科 納富幸夫

テーマ「世の光

わたしは世の光である。

(ヨハネによる福音書 第8章12節)

○「キリストの生き方を知り、祈りを通して神に心を向けることができます」ように。

                             「18歳のわたくし」より

○「人と共に人のために生きようとすることが、自己を成長させ、世界の平和につながることを知る」ことができますように。                   

「18歳のわたくし」より

  • 紛争や対立を解く鍵が「愛」であることをアッシジの聖フランシスコは「平和を求める祈り」の中で  教えてくれています。私たちが一つの真理に向かって行動することができますように。

イエスは、ユダヤの三大祭の一つである ≪仮小屋祭≫ の時、神殿で「わたしは世の光である」と言われました。≪神殿の照明≫ と呼ばれた儀式の中ででした。ここには多くの人が集まっていて、教えを説くには最適な場所でした。神殿の明かりが町を照らし、広場から「闇」を追い出した時、イエスは『あなた方は今、神殿の明かりが夜の闇を追い出すのを見た。私は世の光である。私に従う者はこの一夜の間だけでなく、一生を通じて光を得るであろう。神殿の光は確かに強い。だが間もなく点滅し始め、ついには消えてしまう。私は永遠に続く光である』と。そして『私に従って来るものは「闇」の内を歩くことがなく、命の光を持つであろう』とも言われました。

[光]という言葉はユダヤ人の思想においては、特別の仕方で神と結びついていたことはすでに説明済みです。「主は私の光」(詩篇27-1)、「主はとこしえにあなたの光となる」(イザヤ60-19)「彼の光によって  暗闇を歩んだ」(ヨブ記29-3)等々。更に『メシアの名は「光」』とは、ラビたちの言葉である。その中にあって、イエスが「自分は世の光である」と言われたのです。ユダヤの律法ではどんな発言もそれが真実であるとみなされるには、二人以上の証言を必要としましたが、イエスは自分が神に近くあることを強く 確信し、意識していたので、他の証言は必要とされませんでした。神が、イエスの権威に対する証人であったのです。[命の光]という言葉には二つの意味があって、命の源から発する光と人々に命を与える光です。ユダヤの人たちは、いつも自分の命は、キリストの光に照らされるまでは花を咲かせることは出来ないと理解していました。またイエスは、ご自分に[従う]ことについても語られています。[従う]というギリシャ語は『アコルーティン』でいくつかの意味がありました。一つは、兵士が指揮官に従うという場合に用いられました。行軍や戦闘の時、指示に従うのです(指揮官はキリストであった)。二つ目は奴隷が主人の供をする場合に用いられました。主人の行くところには、どこへでも同行し、主人の言いつけを即座に行う、主人の言いなりになることです。  三つ目は賢明な助言者の意見や裁断を受け入れる場合に用いられました。迷った時、その道に達した人や専門家、知識人に相談します。そして、その意見を受け入れて自分の人生を作り上げていきます。キリストはその良き  助言者であり、その道の専門家です。四つ目は国の法律に服する場合に用いられました。自国の律法とキリストの律法とを自分の人生を左右するものとして受けいれることです。五つ目はある指導者の主旨に従うだれかの意見に賛同する場合に用いられました。だから、ぼんやりと、わからないままで聞くとか、いい加減に聞くようなことはしません。キリストの教えの意味を理解している人が、キリストに従う人です。だから、福音を右から左に聞き流すようなことはしません。福音を聞いて、心に受けいれ、理解し、心にたくわえ、かつ、それに従うのです。キリストに従う者とは、「からだ」と「こころ(魂)」を捧げて、イエスに服従する者のことです。また、[従う者]となるには、まず『ひかり』に歩まなければなりません。独りで歩けばどうしても躓(つまづ)いたり暗中模索になったりします。人生を独りで歩くとどうしても誤った方向に進んでいても気付きにくいものです。確かな ガイド(光)と、正確な地図を持つ者だけが目的地に到着します。イエスに従うこと、それは人生を安全に進み、遂には神の栄光に共に与ることに外ならないのです。

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