7・8月のみ言葉 と 意向 宗教科 納富 幸夫
7・8月のみ言葉と意向は、 「ヨハネによる福音書」第14章27節より 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」です。
「ヨハネによる福音書」第14章には、神の真理が多く含まれていることが一つの特徴です。最初にご自分は父への道であること、さらに、イエス様を愛する人に対しての約束と聖霊について簡潔に述べられていますが、ここでは、25節の後半だけにしぼって見ていきたいと思います。
イエス様は私達にご自分の贈り物について語られています。それは【平和】です。イエス様のみ言葉に『わたしはあなたがたに平和を残す。わたしの平和をあなた方に与える。わたしは世が与えるように、これを与えるのではない。』とありますが、聖書においての「平和」、すなわちヘブル語のシャロームという言葉は単に「問題がない」という意味ではなくて、「私達の最も善きものを育てるすべてのもの」を指しています。ギリシャ語では《アイレーネ》です。しかもヘブルの「平和」には、否定的な意味はどこにもないので、平和とは単に問題がない、争いがないという意味ではないのです。ヘブル語の平和は、人間の最高の幸福をつくりだすすべてのものを指していました。そこで【平和】というのは、「わたしたちの最も善きものを育てるすべてのもの」ということになります。東洋でも互いに「サラーム」と挨拶を交わす時、「相手の人に悪いことが起こらないばかりか、すべて良いことが起こるように願って使われていた」と述べてありました。ですから聖書での「神の平和」とは、「すべての心配事がなくなる」のではなく、「すべての幸福を楽しむことである」と言われているのです。
ウイリアム・バ-クレー氏は『今、世界が与える平和は、逃避の平和である。問題を逃避する平和、事柄にぶつかっていこうとしない平和である。』と言っています。イエス様が与えられる平和は、『問題を克服する平和』なのです。それは『人生のいかなるものも私達から奪い去ることのない平和』なのです。悲しみも、危機も、迫害もそれを損なうことはないのです。
そこで、イエス様が与えられる「平和」とは、「外的環境に左右されない平和である」ということができると思います。それとイエス様が言おうとされた平和には、もう一つの意味が含まれています。それは当時、人間が果たす最高の役割は、人と人との間に正しい関係をつくりだすことであると考えられていました。ですから、聖書が祝福する平和とは、イエス様が与えて下さった平和を回避するのではなく、問題に直面し、それと取り組み、それを克服する事であって、事を処理する苦労を避けて消極的に受け入れることではなく、『積極的に対処して平和をつくりだすこと』にあるのです。たとえ平和が苦難の道であっても、あえてそれをすることにあるということを念頭に置かれているのです。
数十年前、来日された当時のローマ教皇ヨハネ・パウロニ世は、広島での平和アピールをされた後の演説の中で、「この地上に平和をもたらすためには、私達が技術に対する倫理の優位性を、事物に対する人間の優位性を、物質に対する精神の優位性を確信しなければならない」と述べられ、ユネスコにおいても「平和というものは、人類が尊ぶべきものを尊ぶところにしかありえない。大切にすべきものを大切にしているところにしかありえません。」と言われています。これは「秩序の静けさ」であり、守るべき、守られなければならない秩序を教皇様は現代的に言い表されていたのです。
またフルトンというアメリカの宗教家は、「かつてこの世に起こった戦争の中で、まず、人の心の中に始まらなかった戦争はなかった。」と語っています。イエス様は今の毎日の生活の中で、私達が出来る平和への貢献は、『一人一人が平和をつくる人になること』と言われています。夏期休暇を含んだ7・8月は、まず心の中に小さな平和をつくり、それを神の祝福のもと、アシジの聖フランシスコに倣って、家庭に、学校に、地域へと広めていくことを心掛けられてはいかがでしょうか。

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