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講堂朝礼〜生徒へのメッセージ〜

Messages for Students

「希望は欺かない」 校長 古賀誠子

                                        

今日は、皆さんと、「希望」について考えてみたいと思います。

東日本大震災のころ、みなさんはまだ幼い赤ちゃんで、記憶にある人はいないことでしょう。東日本大震災は、2011年3月11日、14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震および、これに伴う福島第一原子力発電所事故(放射能汚染)などによる、大規模な地震災害(震災)です。

東日本各地での大きな揺れや、大津波・火災などにより、東北地方を中心に12都道府県で2万2325名の死者・行方不明者が発生しました。これは明治時代以降の日本の地震被害としては関東大震災に次ぐ被害規模であると言われています。

今からおよそ14年前のことになります。学校で仕事をしていると、ニュースが流れてきて、津波の映像や、人が泣き叫ぶ声、車や家屋が流されていく映像を目にしました。何が起こっているのか、全体像がつかめないまま、日本中に、不安な時間が流れました。夕方、家に帰ると、福島第一原発の様子がテレビ中継で行われていました。何とか持ちこたえて欲しい、と祈りながら映像を見ていました。しかし、祈りむなしく、爆発が起こり、福島県はあっという間に被爆してしまいました。

その頃は、学校にシスター方が複数いらっしゃいました。宗教部会が行われ、その頃の宗教部長であったあるシスターがこう言われました。「被災された方々の悲しみは、マリア様の悲しみであるに違いない。彼女が一番こころを痛めている」「マリア様は今、被災地に今立っておられる」とおっしゃいました。とても印象的な言葉でした。そこから私たちに何ができるのか、宗教部の先生方と話し合いました。災害が起きると、一番小さく弱いところにもっとも大きな被害がおよびます。そのため、障害がある方々の就労支援所の方の作ったグッズや、避難所の集会所で作られたグッズを学校が買い取って、販売し、被災地の生活を支えました。もちろん募金活動も精力的に行いました。

5月、聖母月には、東日本大震災のために亡くなられた人々のために、そして被災された人々のために、テーマを何にするか考えました。先生方からいろんな意見が飛び交い、時間をかけて考え出されたのが、なんと「希望」という言葉だったのです。正直、「希望」という言葉が現状にふさわしいのだろうかと考えました。被災したばかりで、絶望の中にある人たち、大切な家族を失ったばかりの人たちに「希望」という言葉は、かえって、その方たちを傷つけるのではないかとも考えました。「この状況のどこに希望がある?」と被災された方々から逆に責められそうな気がしたのです。なぜならば、希望は、苦しみの前では、潰えそうになるものだからです。

でも、今、あのときのことを振り返ってみると、「希望」という言葉で間違いなかったと確信します。あの時、わたしたちが「希望」に引き寄せられなければ、どうなっているでしょう。皆さんも知る通り、今もなおある被災地にある多くの課題に、日本が力を合わせて立ち向かっていくことができていたでしょうか。

日本地図をロウソクで形作り、被災地のことを、自分のこととして捉え、日本が一つになって被災地を支えていこうと覚悟と決意をもって、私たちも「祈りの集い」を行いました。ロウソクの光が、亡くなられた方、行方不明のままの方の命の灯のように思えました。光を見つめながら、涙を流した生徒もいました。

ある先生が、希望について、聖書の箇所を添えて、次のように語っています。

「確かに未来はある。あなたの希望がたたれることはない。」箴言 第23章 18節

「精一杯努力したのに報われないときがあります。信じていたのに裏切られることがあります。何もかもが失敗に終わり、疲れ切り、暗闇の中、自分だけがポツンといるような状況に陥ることや、絶望して次になかなか進むことのできない辛くて苦しい状況の時もあります。私は、そんな時こそ、この聖書のみ言葉を胸に刻みます。自分は決して一人ではない。いつも見てくださる方、守ってくださる方がいらっしゃる。どんな時でも必ず明日はやってくる。だからとにかく必ず道は開けるはずだと信じてみよう。たとえ、見通しはなく、一切望みを見いだせないときも、とにかく一筋でいい、希望を抱き続けよう。確かに未来はある。希望がたたれることはない。私はそう信じ、このみ言葉に助けられ、いつも前を向いて進んでいけるように、希望を捨てずに歩んでいけるようにと願いもとめます。」

2025年は、カトリック教会では、「希望の聖年」です。25年に1度、神様が特別に恵みをお与えになる年です。そして、聖年とは、「共に歩む」ということでもあります。つまり「キリスト者がひとつの信仰のうちに同じ目的地に向かって共に歩む」ということです。今年、4月にご帰天された教皇フランシスコが遺した聖年のテーマは、「希望の巡礼者」です。巡礼者を「旅人」と置き換えると理解しやすいでしょう。そして、カトリック校に在る私たちひとり一人もキリスト者であり、巡礼者であるのです。

教皇フランシスコの最後のメッセージを締め括りにご紹介します。「すべての人は希望を抱きます。明日は何が起こるか分からないとはいえ、希望はよいものへの願望と期待として、一人一人の心の中に宿っています。けれども将来が予測できないことから、相反する思いを抱くこともあります。信頼から恐れへ、平穏から落胆へ、確信から疑いへ。わたしたちはしばしば失望した人と出会います。自分に幸福をもたらすものなど何もないかのように、懐疑的に、悲観的に将来をみる人たちです。聖年が、すべての人にとって希望を取り戻す機会となりますように。」(第266代 教皇フランシスコ)

わたしたちが、「希望の巡礼者」として、なすべきことは何でしょうか。わたしたち、ひとり一人が考察を深めてまいりましょう。

<祈り>

どうか、「希望」が、『地の塩・世の光』である私たちを通して、それを望む人たちに浸透していきますように。  

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