11月のみ言葉 と 意向 宗教科 納富 幸夫
イエス様は「過ぎ越しの祭り」の前、ご自分がこの世から父のもとへと移る時が来たのを悟って、弟子達に実に多くの真理と戒めをお与えになられました。それを聞いて動揺した弟子達に、すぐに『心を騒がせてはならない。あなた方は神を信じなさい。』と言われました。そして『神に信頼しなさい』と言われるだけではなく、同時に『わたしに信頼しなさい』とも言われたのです。
私たちの人生には、私たちには到底確証できないものや私たちの理解を超えたものを受け入れなければならない時が必ずやってきます。しかし私たちが自分の人生には目的があり、その目的が愛であることを信じているならば、『たとえ、耐え難いものであっても耐えうるものとなるはずである。』と、きっと一条の光を見つけ出すことができます。
聖パウロは「ご自分の御子さえ惜しまないで、私たちすべての者のために死に渡された方が、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。」(「ローマ書」第8章)と言っています。もし私たちが、神とはイエス様が教えられたような方であると信じ、イエス様はその神の似姿であると信じるならば、イエス様のあの驚くような愛の事実を前にして、私たちは自分の理解を超えたものであっても、受け入れることができるようになり、人生の嵐の中でさえ、平静さを保つことができるようになるのかもしれません。とはいっても、それは容易な事ではありません。でも、神は持っているもののすべてを私たちに喜んで与えてくださることや、イエス様によって証されている神の善意を固く信じ、信頼できるからです。さらにイエス様は、『私の父の家には住むところがたくさんある。』とも語っておられます。父の家というのは、天の国・神の国を意味しています。イエス様は『天には住むところがたくさんある』と言われます。どういうことを意味しておられたのでしょうか。
「住むところ」という言葉には、三つの解釈があります。一つ目は、人には、その人の人生にふさわしい部屋が割り当てられているということです。ユダヤ人は、地上での善い行いや忠誠さによって、天ではそれぞれ異なった祝福を受けると信じていました。当時の『エノクの秘密』という書物には、≪来たるべき世には、善には善の部屋が、悪には悪の部屋が用意されている≫ と書かれていました。そこは、広い宮殿にたとえられています。それまでの天国のイメージが変化したのは確かでした。
二つ目は、ギリシヤ人の間では ≪足場≫ の意味を持ち、天への道程には多くの段階があること、また、天においても進歩、発展があるということです。人が死ぬと、その魂はパラダイスと呼ばれて、まだ地上に属している場所へ行き、そこで魂は教えと訓練を受け、合格したら、地上を離れて、天に上るというのです。しかも、魂が最終的に天国に到着するまでには、様々な段階を超えなければならないのです。「ヘブル書」第4章14節に、「主、イエスはもろもろの天を通って行かれた」とあるのは、この段階を指すとの解釈でした。人がこの世で得た徳に比例して、天国でも栄光や報酬、段階にそれぞれ程度があるという考え方には、惹きつけられてしまいます。天国においてなお進歩や発展があるという考えは、魅力的ではありませんか。でもこのような考え方が正しいのか、間違っているかは分かりません。
三つ目は、天にはすべての人のために多くの部屋が用意されているということです。地上の家は満員でも、天は、神の心のように限りなく広いのです。すべての人のための部屋が準備されているのは当然でしょう。決して、地上の宿のように追い返されるようなことはないはずです。
最後に、イエス様が友に語られた言葉を紹介しましょう。
『恐れてはならない。人があなた方に戸を閉じるとも、 天においては決して戸を閉ざされることはないだろう。』

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