2月のみ言葉 と 意向 宗教科 納富 幸夫
コヘレトは、大抵のこの世の空しさ、はかなさを知らせることによって、私たちが幻滅に陥らず、常に人生の楽しみを味わえと教えてくれています。同時に「神への感謝を持つ」ことを教えてくれます。しかし人間の生きる目的が快楽にあるというのではなく、節度なのだということを強調しています。
2月のみ言葉は「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」(「コヘレトの言葉」第 3 章 11 節)です。「コへレトの言葉」第3章の中でも、人間の行いの半分は、死ぬ時、泣く時、嘆く時、失う時などのつらいことの方が多いと述べられており、人間は死におびえて生きています。それは人間が「時の中」で生きているからであって、神のなされるすべてを見通し、すべてを理解することができず、神の計画は人間には全く分からないからです。しかし、神はすべてをうまく計らわれています。神のなされることは、すべてが「時」に適っているのです。そこで、「わたしが知ったことは、人間は、『神の目の下で正しい生活をしていくことにつきる』ということであった。」と述べています。
福音書の中で、イエス様も「神の時」について何度か話されています。よく知られているのは、カナでの婚礼(「ヨハネによる福音書」第2章1-11節)です。そこでは、『わたしの時はまだ来ていません』とイエス様は言われています。さらに「イエスの兄弟たちの不信仰」(「ヨハネによる福音書」第7章6節)では、『わたしの時はまだ来ていませんが~』、『わたしの時はまだ満ちていないから』(「ヨハネによる福音書」第7章8節)とあります。「ヨハネによる福音書」第12章23節、「ヨハネによる福音書」第17章1節、「マタイによる福音書」第26章18節、45節、「マルコによる福音書」第14章41節などにもあります。
イエス様は、ご自分が確かな目的と使命をもってこの世に来られたことを自覚しておられています。そしてその生涯を自分の願いという面からではなく、ご自分に対する神のみ旨という面からみられ、移り行く時間を背景にしてではなく、永遠という不動の背景のもとに見られていました。何より、ご自分がこの世に来られたのはそのためであるとも知っておられました。そしてその「自分の時」に向かって、着実に歩まれていかれました。
イエス様が使われている「時」、ホーラーは、神の定められている時間を意味しています。このような時や時間は動かせるものではなく、避けられるものではなかったのです。変更を許されない、ひたすら受け入れるべき時間だったのです。なぜならそれは、神の計画に基づいて決定された時だったからです。もう一つの「時」をあらわす言葉、カイロスは、何かをするのに最もふさわしい絶好の機会の意味で使われています。「ヨハネによる福音書」第7章1節~9節がそれに相当しています。イエス様は「人の時」ではなく、「神の時」において事を治められることが多いのです。ここでは、人間の性急さは、神の知恵に従うことを学ぶことも必要であるとヨハネは述べています。世界は神の時間表によって歩んでいくものであるからです。
さらに神のみ旨を行うのは、イエス様ただお一人ではなく、コヘレトが言うように、世界中のすべての人であることも忘れてはなりません。私たちも自分の願い、自分の望みでなく、神が世界に私たちを送り込まれたそのみ旨についても考えなければなりません。
今月のテーマは「立ち返る」。自分の心を神に向ける、神と向き合う月です。聖ヨハネは『イエス様なしでは、人生は退屈で、空虚でかつ平凡である。イエス様が生活に入ってこられる時、人生は生き生きと輝き、躍動に満たされる。』と言っています。コヘレトもこう言っています。『自分の生きている間、楽しんで、安楽に過ごすこと以外、人間にはよいことがないと、わたしは知った。しかし、人間が食べ、飲み、仕事を楽しむことは、神の恵みである。』(「コヘレトのことば」第3章12節・13節)と。

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