5月のみ言葉 と 意向 宗教科 納富 幸夫
5月のみ言葉は、「希望はわたしたちを欺くことがありません。」(「ローマの信徒への手紙」第5章5節)です。
5月は、世界中のカトリック教会では、「聖母月」として親しまれています。この章は、青く澄みきった5月・明けの星・希望の星であるマリア様にとって、実にふさわしい聖句ではないかと思われます。同時にこのみ言葉は、聖パウロの極めて優れた抒情詩の中の一つであると言われています。特にパウロはこの章で、自分がいつも神の【みもと】にいるという確信の喜びを高らかにこう述べています。『私が神を信頼し、み言葉を聞いて神を受け入れる姿勢の中で、今まで、どうしても出来なかった、神の律法を行おうとする努力を、容易にしてくれた。』『神と共にある平安・神と親密である生活が私に与えられた。』と。
イエス様が人として来られるまで、またイエス様が神について語られることを人が真実として受け入れる以前は、誰一人として、神と親密な人はいませんでした。それどころか、神を最高善としてではなく、最高悪と理解していた当時の記録が残されています。それには『彼の隠れた顔と鉄のような足を、人は知らなかったか。感じなかったか。毎日あらゆるものを脅かし、踏みつけているのに。』とあります。また神を全く見知らぬ者、あるいは、全く手の届かないものと理解した人達さえいました。そこでパウロは、『神との親しい交わりの生活に入るのは、私達が信じているイエス様の父である神が、神であることを知る時のみなのです。』と述べて、その新しい関係を【義認】と呼んでいました。さらにパウロは、『イエス様こそが、我らが立っているこの恩恵に至る道なのである。』と声を大にして語っています。
さらにパウロが用いている『導き入れる』という重要な言葉には、二つの重要な意味があると、当時の広島教区の斉藤 春夫神父様から詳しく教えていただきました。手元にあるノートを見ると、その一つは ≪ある人を王座に導き入れ、先導する時のことば≫ であって、この意味でパウロの主張を見てみると、『イエス様は、私達を神のみ前に先導される。イエス様は私達を王のみ前に至る扉を開かれる。そして、その扉が開かれると、そこに見出すのは恵みである。刑罰でも、裁きでも、複数でもなく、神の純粋で、受けるに値しない取得され得ない功績によっても得られない信じられない程のいつくしみである。』と。もう一つは、≪避難所の意味に使われることば≫ であって、この意味で解釈すれば、『私達が自己の努力に依存しようとする限り、私達の心は、動揺し続ける。しかし今やイエス様のみ言葉を聞き、遂に神の恵みの避難所にきた。そして、自分自身ではなしえないが、神のみはなされるとの信頼の平安を覚える。イエス様の故に、王のみ前に出ることができ、神の恵みの避難所に入ることができる。』と。
当時のローマでは、キリスト者でいることはとても困難なことでした。そこでパウロは『患難は忍耐を生み出す』と言っています。艱難に対して使われている言葉は「抑圧」です。あらゆる種類の抑圧がキリスト者に襲いかかってきますが、『抑圧は忍耐を生み出す』とパウロは言います。当時の【忍耐】は受動的に耐え忍ぶ精神ではなく、能動的に人生の苦難や試練を征服し、打ち勝つ精神を表していました。ベートーベンが音楽家にとって致命的苦悩であった時、彼は、「私は喉で人生を勝ち取ろう」と語ったそうです。続いてパウロは、『忍耐は練達を生み出し』と語ります。パウロが【練達】に対して使った言葉は、火の中で不純なものがすべて除去された金属に使われていました。苦難が不屈の精神を伴う時、人生闘いを通して人はより強く、より潔くなり、またより善くなって神に一層近づくといいます。パウロはさらに『練達は希望を生み出す』と語ります。
二人の人が同一の境遇に陥った場合、一人は絶望に陥り、もう一人には偉大さの挑戦になることは よく耳にすることでしょう。パウロは最後に重要な宣言を出しています。それは≪キリスト者の希望は、神の愛に根ざしているが故に、決して幻想に終わらない。≫と。人の希望が神の内に ある時、神は我々を永遠の力で裏づけされた永遠の愛をもって愛し給うが故に、それは決して幻想には終わらないのです。さあ、今年は、大きな希望を胸に、≪小さきマリア≫の道を、自信を持って歩んで行く年にいたしましょう。

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