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講堂朝礼〜生徒へのメッセージ〜

Messages for Students

6月のみ言葉 と 意向  宗教科 納富 幸夫

6月のみ言葉「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」(「マタイによる福音書」第7章12節)は、イエス様が話された最も有名なもので、「山上の垂訓」の中でも倫理の最高峰だと言われています。そして社会倫理の最高峰であり、あらゆる倫理的教訓の主峰でもありました。イエス様が「山上の垂訓」で話されたその類のものは当時の指導者たちの言葉にもいくつか見ることができますが、この教えに匹敵するものは見当たりません。これは以前、誰も言ったことがないもので、新しい教訓、私達の人生とその責任に対するイエス様だけの見解であるともいえます。

当時、ユダヤに二人の有名なユダヤ教の指導者がいました。一人はその教えが厳格なことで知られており、もう一人は教えが慈愛に満ちていました。ある異教徒が厳格な人の元に来て、「もしあなたが、私が片脚で立っている間に、律法の全てを教えて下さるなら、私はユダヤ教に改宗します。」と言いました。するとその指導者は、手に持っていた物差しで彼を追い出しました。そこでこの異教徒は、もう一人のところに行って、「ぜひユダヤ教に改宗したい」と申し出ます。すると慈愛に満ちたその指導者は「あなたがしてほしくないと思うことは、人にもしてはならない。これが律法の全てであり、あとはその説明である。行って学びなさい」と諭しました。

「トビト記」の中に、老人トビトが人生に必要な全ての事を息子に教える箇所があります。その格言の一つが『あなたが自分で憎むことを、誰にもしてはならない』(「トビト記」第4章15節)でした。霊的指導者エリエゼルは『あなたは友達の名誉を、自分の名誉と同じように尊びなさい』と言い、詩篇では『神に近づくことが出来る人は、隣人に悪を行わないものです。』(「詩篇」第15章3節)という表現になりました。他を見てみますと、『人は皆無知に慄き、死を恐れる、…命こそ尊きものよ、我が身に望むそのことを、全ての人に施せよ、殺すなかれ、殺させるなかれ』と仏教の「賛歌」の中にもイエス様の教えとよく似た言葉が見つかります。『人からして欲しくないと思うことは、人にもしてはならない』は、今も、多くの人達がよく口にしていますが、『人にして欲しいと望むことは、人にもその通りにしなさい』とはほとんど言いません。では黄金律の両者の違いはどこなのでしょうか。

消極的な戒律は、もともと、宗教的な戒律と言うよりも、常識や法律的な原則に近いものであって、社会生活の基本であると言われているものでした。さらにこれは、《あることをしない》と言うことだけを要求しているので、何もしないことで守ることが出来ます。しかし何もしないことによって善い人になり、神に近づけるのは、イエス様の言われる《善》に反します。しかし積極的な戒律では、その人は自分が許されたいと願うように他人を許し、自分が助けてもらいたいと願うように他人を助け、自分が褒められたいように他人をも褒め、自分が理解されたいように他人を理解しようとするのです。しかもその人は、何かをするのを避けようとせず、進んですることを探すでしょう。それは自分の時間が自分のための働きを少なくしますが、自分の仕事を中止してでも誰かを助けようとするようにつながってきます。だからそれらによって、『自分の中にある《我》が弱まり、砕かれた時にはじめて出来る事なのです。』とイエス様は言われています。

そのためにはこのみ言葉に従って、新しい人として、新しい人生としての、自分の生活の中心を持つ必要があります。世界の人達が皆、この神の黄金律を心がけたなら、世界は新しくなり、戦争や争い事もなくなるはずです。先日亡くなられた《世界一貧しい大統領》として世界中の人達に親しまれていた「ホセ元大統領」が宣言された本当の平和が、地球上に訪れるに違いないと、心から信じているものの一人であります。

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