ミッションウィークⅠ 教諭 磯山 文平
生徒のみなさんは毎日のお祈りをどのようにしているでしょうか。手を合わせてお祈りすることが出来ているでしょうか。
福岡海星女子学院高等学校に勤めており、3年B組の担任である私は、毎日少なくとも三度はお祈りをします。 職員朝礼でのお祈り、朝礼時のお祈り、終礼時のお祈りです。生徒のみなさんも朝礼、終礼でお祈りをしていますよね。
私はカトリック信者ではありません。その他のキリスト教の信者でもありません。
私は浄土真宗の信者です。しかし浄土真宗の信者と言ってお念仏を暗誦しているわけでもなく、それを感じるのは親族の葬儀や法事の際だけです。神社にも行きます。初詣や何かの祈願、そして毎年の大晦日には厄払いに家族で神社に通っています。先日、車を購入した際にも神社で安全祈願を行いました。 私たち日本人の多くはそれぞれの機会に様々な宗教を経験しています。そして、その宗教、その場に応じた所作をとるようにしています。みなさんもそうでしょう。神社に詣でた時には参道の中央を通らないように進み、手水場で手を清め、一般的には二礼二拍手一礼を行っているでしょう。仏式の葬儀に出席したときに宗教や宗派が違うからといって焼香を拒否したり、ご住職の指示に反抗して低頭しなかったりすることはないでしょう。そして、その行動によって神罰や仏罰が下るなどと言われたことのある人ほとんどいないのではないでしょうか。
宗教が違うのに私たちがそのような行動をとるのはなぜでしょうか。
いや、宗教から離れて考えると答えが見えてきます。海外旅行をしたことのある人はすぐに理解するでしょうが、その国、その地域の習慣にあわせて行動した経験があるでしょう。海外と言わず、国内でも、旅行と言わず、友達の家に行ったときでも、その家庭の習慣にあわせた行動をしたことはないでしょうか。友人から何かの相談をされたときに、自分の考えばかりを押し付けて終わるのではなく。その人に寄り添い、その人の立場で物事を考えるようにしていることでしょう。その時は自らの国籍や性、年齢や職業に関わらず、その場、その人にあわせています。
私はこう考えます。それはその時、その場、その場にいる人たちへの敬意を表しているからだと。敬意という言葉が言い過ぎなら、大切に感じているからだと。思いやりからだと。私は先ほども伝えた通り仏教徒でありながら、お経を唱える機会は年に数回ほどしかありません。それに対してお祈りは年間600回を優に超えます。50年近く前、マリア幼稚園に入園した私は、その時からお祈りをしてきました。そして海星小学校で過ごした6年間、幼稚園、小学校では、朝夕のお祈りに加え、食前食後のお祈りもありましたから、今よりも多くお祈りをしてきました。50歳を過ぎた今、ときどき幼かったころのことを思い出します。その当時の園長先生だったシスター小川がおしゃっていました。「神様は目には見えないけれど、手を合わせて、お祈りしたときに合わせた手のひらの先に見える光は神様の姿です」生徒のみなさん、互いを思いやる姿勢を、お祈りの時にもあらわしてみませんか。私の心は、お祈りによって少し軽くなる時もあります。
今日は私が幼稚園児の時にお祈りしていた「天使祝詞」、現在の「アヴェ・マリアの祈り」を唱えましょう。
めでたし 聖寵充ち満てるマリア、
主御身とともにまします。
御身は女のうちにて祝せられ、
御胎内の御子イエズスも祝せられたもう。
天主の御母聖マリア、
罪人なるわれらのために、
今も臨終のときも祈り給え。アーメン。
(漢字が苦手な人はこちら)
めでたし せいちょう みちみてるマリア、
しゅ おんみとともに まします。
おんみは おんなの うちにて しゅくせられ、
ごたいないの おんこ イエズスも しゅくせられたもう。
てんしゅの おんはは せいマリア、
つみびとなる われらのために、
いまも りんじゅうのときも いのりたまえ。アーメン。
太字は断定の助動詞「なり」の連体形

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