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講堂朝礼〜生徒へのメッセージ〜

Messages for Students

12月のみ言葉 と 意向  宗教科 納富 幸夫

 「ヨハネによる福音書」第1章13節「信じる人はだれでも、新しく生まれ変わります。」は、12節と関連しています。あわせて見ていきましょう。
 そこには、イエス様が来られた時、すべての人たちがイエス様を拒否したのではないと述べられてあります。ある人々はイエス様を受け入れ、迎え入れたとあります。その人々にイエス様は、「神の子」となる権利を与えられています。そこには、二つの意味が含まれています。それは、人間は生まれながらにしては神の子ではないということと、人間は神の子に成らなければならないということです。しかもこの【成る】という言葉は、人間関係においても、しばしば見られる現象であります。
 通常、家庭において、子どもには二種のタイプが見られると言われています。自分の家庭を利用するだけで、親や家のことは何もしようとしない、成人になるまでは家庭が提供するすべてのものを受けていながら、その恩に報いようとはしない子どもです。親は、子どもの人生にあらゆるチャンスを与えようと苦労し、多くの犠牲を払いますが、子どもの方はそれを当然の権利として受け、何を受けているかさえ悟らないばかりか、受けるに足るものとなる努力も、それに報いようとする努力もしていません。それに家庭を巣立った後は、親と過ごした家庭との関係を保っていこうとする努力をしません。親は子どものために尽くしてきたのに、子どもは関係を断ってしまうのです。家族との絆を保たねばならないとも思わず、恩を返さねばならないとも思わないのです。親は子どもに愛をもってすべてを与えますが、それに対して子どもは何の報いもしないのです。
 一方、両親が自分のために何をしてくれているのか、また、何をしてきたのかを深く理解している子どもがいます。あらゆる機会をとらえて、感謝の気持ちを表そうとします。年齢が進むにつれて、ますます親密になります。家庭を巣立った後にもその絆は存続して、親の恩に報い尽くすことはできないということを意識してきます。
 このように最初の子どもは、自分の両親から遠く離れてしまう一方ですが、後の子どもは、親とますます親密になります。この二人の子どもは、どちらも子どもですが、その内容は非常に異なっています。後の子どもは、前の子どもには決して見られなかった方法で子どもと【成った】のです。すべての人は、自分の生命の保持を神に負っているという意味でいうと、確かに私たちも「神の子・光の子」なのです。しかし、真の親子関係が持つ本当の深さと親密さにおいて「神の子・光の子」と【成る】のは、そのうちのごくごく少数の人だけではないでしょうか。ここでヨハネの言葉を借りるなら、『人はイエス・キリストを通してのみ、真正にして現実的な神の子・光の子と成ることができる』と言うことができます。しかもヨハネは、『それは血筋によらない、人間の意志にもよらない、それは、全く神から来る。私たちは、神が私たちに与えたもう関係に入らなければならない。』と言っています。当時、ユダヤの人達は、子どもの肉体は、父と母の血の結合によって生まれるものだと考えていました。そこでヨハネは「神の子に成る」ということは、人間の意志からでも、人間の欲望からでもないことを明らかにしています。それは神から来るものなのでした。私たちは、自分を神の子とすることはできません。神が私に与えられた関係に入らなければならないのです。自分の意志や力で神との交友関係に入ることは決して出来ません。人はイエス様を通してのみ、現実的な神の子と成るのだとヨハネは強調して言っているのです。二人の子どもは、親(神)から子ども(神の子)となる権利を与えられていましたが、どちらの子どもが真の「子ども」(神の子)と成ったのか、もう見当がつかれたと思います。ここでのヨハネの中心的な教えは、≪私たちがイエス様の中に人間に対する神の御心と態度そのものを見て、信じるならば、私たちは神に心を開いて自分を明け渡し、神の子と成ることが出来る≫と言われているのです。イエス様がどのような方であるかということこそが、私たちが ≪神の子と成る≫ 可能性を開くものであると述べて、次の【受肉の思想】へと続いていきます。

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