9月のみことば「関心をもつ」宗教科 阿部光喜
宗教科 阿部光喜
十 幸せを運ぶ人になりましょう。
愛、思いやり、親切な心は使えばつかうほど豊かになります。けっして出し惜しみをしてはなりません。
自分を無にしてひとに尽くしましょう。無条件の愛であれば疲れません。 透明な心でする行為は、体は疲れてもこころは疲れません。
(「そよ風のように生きる」より)
「わたしの兄弟、しかも最も小さな者の一人にしたことは、わたしにしたのである。」
(「マタイによる福音書」第25章40節)
・海星祭で、最も小さき者のため、自分でできる支援を見つけ、行動することができますように。
また、皆で力を合わせることができますように。
・「人と共に人のために生きる」ことができますように。
「18歳のわたくし」より
・東日本大震災、熊本地震、九州北部豪雨災害、熱海の土石流被害の被災地が一日も早く復興するように祈り、 被災された方々・復興に携わる方々に神様からの祝福と守りがありますように。
「わたしの兄弟、しかも最も小さな者の一人にしたことは、私にしたのである。」
この聖句について考えてみましょう。
この聖句を読むとき、私の脳裏には、カルカッタのマザー・テレサのことが想い浮かびます。
「わたしの兄弟、しかも最も小さな者の一人にしたことは、私にしたのである。」これは、マザー・ テレサの活動の源となる聖書の言葉でもあります。
『あなた方は、わたしが飢えていた時に食べさせ、乾いた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢獄にいた時に訪ねてくれた。』
『あなた方によく言っておく。これらのわたしの兄弟、しかも最も小さな者の一人にしたことは、わたしにしたのである。』
つまり、貧しい人に触れる時、わたしたちは実際にキリストの体に触れているのです。
食べ物をあげるのは 貧しい人のうちにおられる 飢えているキリストに、着物を着せるのは裸のキリストに、 住まいをあげるのは家なしのキリストに なのです。
それは単に、パンがないための飢えでも、裸に着せる着物の必要だけでも、レンガ造りの家がないための家なしでもありません。
「キリストは、どこにおいても、一番小さな者を通して神の愛の神秘を示してくださいます。すなわち一番 小さな者、一番弱いものに目を注ぐことによって世界は癒されることを、そして、貧しく傷ついた者、痛みを もった者のために働くことによって、皆が一つに結ばれる。」
キリストはこうおっしゃっているかのようです。一番下の方をごらんなさい。私はそこにいます。一番弱い人、傷ついた人、病める人、飢えている人、貧しい人に目を向けなさい。私はそこにいますと。
「神の愛の宣教者会」マザー・テレサは路傍に捨てられて、だれからも顧みられず、死を待つだけの人々を連れて帰り、宗教・人種の違いを問わず、人間らしい最期の看取りに尽くしました。
マザーは「私は福祉活動をしているのではありません。私にとって大切なのは、群衆としての人々ではなく、個々の魂なのです。」とおっしゃいます。この言葉の底に流れている信念は「貧しい人の一人ひとりは、キリストその人である。」ということ、そして、そのような姿をとって私たちと共にいるキリストは、今日も、「わたしたちの最も小さな兄弟姉妹の一人にしてくれたことは、わたしたちにしてくれたこと」と語りかけています。
「貧しい人の一人ひとりは、キリストその人である」という文章の意味は理解できます。「そうかと」。
苦しんでいらっしゃる人がおられるということ、ではその次 あなたはどうしましょうか。
「愛の証を行動に」祈ること、願うことも大切なことです。
そして、自分は何ができるのか、自分の身近なことからあなたができる「愛の行動」をそっと実践することでは ないでしょうか。考えてみて下さい。
新聞を読んでいたら、考えさせられることばが書かれていました。
今「野戦病院」のような状態、「社会の底が抜けてしまっている」「ダンボール村」
これらの言葉は今コロナ禍での身近な人々の苦しい生活を表しています。
今、イエス様はわたしたちに何を求めておられるのでしょう。イエス様のこころの暖かさ、こころの交流を待っておられるのではないでしょうか。 聖書の「みことば」が皆さんの生活の中で生きて働き、あなたの毎日が豊かなものになりますよう祈ります
十 祈りは信仰を生み 信仰は愛を生み 愛は貧しい人々のための奉仕を生みます。