お知らせ詳細

講堂朝礼〜生徒へのメッセージ〜

Messages for Students

「メモリー」 校長 古賀誠子

校長 古賀誠子

11月は死者の月でした。先日行われた慰霊祭のミサでは、皆さんは何を考えて祈っていたのでしょうか。私は7年前の11月7日に他界した父のことを思って、祈りました。父は、優しく、愛情いっぱい、同時にとても厳しい人でした。特に仕事に厳しく、病に倒れるその日まで一生懸命働いて、私たち家族に強く、優しく、逞しく「生きる」姿を見せてくれました。そして最後の瞬間まで、病院でも気丈にふるまっていました。「お父さん、今日は私、病院にとまろうか?」と言うと、笑顔を見せて、弱弱しく首を横にふりました。「明日仕事だから、もう家に帰りなさい」ときっと言いたかったのでしょう。結局、父はその日に一人で旅立っていきました。あのとき、私が泊まっていたら、もっと違うお別れができたかもしれないと後悔することがあります。家族がかけつけたとき、まだ少しだけ体にぬくもりが残っていました。その父の遺体のそばで母が祈りました。「主イエスキリストの父なる神様、あなたはすべてをよしとされるお方です、私はこの死を受け入れ、あなたを信頼します。あなたのみもとに召された私たちの大切な家族に、永遠のやすらぎを与えてください。」こうして父親の命が終わっていく姿からも私は「命」について学びました。

私は、毎朝、学校に出勤する前に、父の遺影に手を合わせて祈ります。「お父さん、行ってくるね、今日も一日守ってね。」今朝、ふと思ったのです。この祈りは何だろう。亡くなった人に対して祈るというのは、神様に祈ることと同じなのだろうか?でも、人間への祈りは、神様への祈りとは違うでしょうね。ミサの中ででてきた「永遠の命」ってなんだろう、「天国で再会する希望」ってなんなのだろう。きっとみんなが同じ疑問を持ったままです。ただひとつだけ私には、わかっていることがあります。私の父への祈りは、父と「話したい」、父に「触れたい」という祈りです。「お父さん、これどう思う?」、私は父からの返事に、今日も一日耳を澄ませています。

人間をテントにたとえるとしたら、地上に張られている「私」と言うテント、いつか神様がたたもうとされるときがやってきます。それは、いつのことなのか、誰にも分かりません。自分はまだすぐではないだろうとは思ってはいますが、いつでも、神様が私を呼ばれる時は、私は神様のもとへ戻って行かなければなりません。そして、慰霊祭のミサで牧山神父様がはっきりとおっしゃったように、その日は誰にでも等しく、必ずやってきます。私は、その日には神様に聞きたいことがあります。「私はちゃんとやれたでしょうか、やるべきこと、果たすべきことをまっとうできたでしょうか」って。

「死」について考えるということは、「生」について考えるということと同じです。「死」をどう受け止めるかによって、今の生き方が変わってきます。今日は、3年生にお願いして、片柳神父様の「ぬくもりの記憶」の一ページを朗読してもらいます。みなさん、よく考えながら、聞いてください。

『どんな人にも、神様から与えられた使命があるという。では、たとえば病気で寝たきりの人はどうだろう。こんな話を聴いたことがある。ある若い神父が、宣教のため、貧しい国に派遣されることになった。出発の前に彼は、以前から見舞いに行っていた寝たきりの高齢者に挨拶に行くことにした。自分は元気で出かけていくが、その高齢者が寝たきりで残されると思うと、内心、気が重かったそうだ。ところが、彼が事情を話すと、思いがけないことが起こった。その高齢者は、穏やかな笑顔で、「では、あなたは健康のほうで頑張ってください。私は病気のほうで最後まで頑張ります。」

 健康のほうで頑張るとは、貧しい人々のために働くことで、神の国を実現するということだろう。病気のほうで頑張るとは、どれほど病気がひどくなっても、最後まで希望を捨てずに祈り続けるということだ。この言葉を聞いた神父は、その高齢者のほうが、自分よりはるかに偉大なことをしているのではないかと思ったという。病気の人には、病気に負けず、最後の瞬間まで命を輝かせるという尊い使命がある。どれほど困難な状況にあってもあきらめないその姿は、たくさんの人々に生きる希望をあたえることだろう。

 病状が悪化し、意識さえなくなっても、まだできることはある。たとえ会話できなくなっても、命のぬくもりがそこに存在するというだけで、家族や友人たちの支えになることができる。世話をしてもらうこともできるし、愛を受け止めることもできる。いなくなってしまえば、家族や友人たちは、もう世話をすることも、目に見える形で愛を注ぐこともできない。どんな人にも、神様から与えられた使命がある。そう信じて、自分にできることを見つけたい。』

シスター入江のお話のおさらいです。『イチローが大谷翔平に「できるだけ無理をしてやっていてほしい。なぜなら、無理ができる時期は長くない。大谷翔平にしかつくれない時間を積み重ねていてほしい。」あの頃、こうやっておけばよかった、という思いを自分の人生の中に残さないようにしたいですね。』

私たちに与えられている時間は限られています。多くの人々との出会い、喜びや悲しみの涙でさえも、無駄にしたくない一瞬です。そしてそのためにも、気力・体力ともに恵まれている今、若いあなたたちは、無理をできるだけ多く重ねて、自分を高めておきたいところです。その後の生き方が変わりますから。そして、老いても、死ぬその瞬間までも、精一杯自分の命を使いながら(使命)、神様のみもとへと近づく自分でありたいと思います。

先日、見に行った「キャッツ」、イギリスの詩人、TSエリオット(1888-1965)の作品です。人間に飼いならされるのを拒否して、自らの人生を謳歌する無限の個性と行動力を持つ猫たち、ジェリクルキャッツの中から、一匹だけが、永遠の命を得ることが出来ます。我こそが永遠の命を手に入れようと、舞踏会では踊りや歌を派手に披露し、自分をアピールします。「メモリー」を歌った猫(グリザベラ)が最終的に選ばれました。「メモリー」の中で、彼女はこう歌っていました。「月明かりに一人きり、古き日々に微笑みかける、あの時の私は美しかった、忘れないその幸せの日々、思い出よ、よみがえれ」「私は夜明けを待つ、新たな命を考えれば、くじけたりなんかしない。この夜を思い出に渡して、明日に向かうの」

私のテントがおろされる頃、「よき人生だった」と振り返り、この世での神様からいただいた使命をきっちり果たして、「新しい命」へと向かうことができれば幸せです。

福岡海星女子学院の生徒は、自分に与えられた使命を認識し、より良くものを考え、より良い選びで人生を切り開いていくことができます。なぜならば、『人間を超えた存在を感じ、カトリックの教えに根ざした生き方を知っているからです』(「18歳のわたくし」より)

最後に、ブロードウェイミュージカル、英語版のキャッツの「メモリー」を動画で聞いて、終わりにします。手元に、歌詞がありますので、その意味を考え楽しみながら聞いてください。

一覧